いだてん中村勘九郎の実在モデル金栗四三さんが凄い!感動秘話あり

2019年に放送される大河ドラマ「いだてん」
2020年の東京オリンピックに合わせて放送される内容でこのドラマを見れば東京五輪の見方が変わるとまで言われています!脚本はクドカンこと宮藤官九郎さんということでも期待大ですね♪
そんないだてん私が今回注目したのは金栗四三(かなくり しそう)の中村勘九郎さんです。

中村勘九郎さん演じる金栗四三は幼い頃、虚弱体質でしたがその後、五輪を目指役を演じます。国内無敵という金栗を中村勘九郎さんはどのように演じるのでしょうか。歌舞伎中村勘九郎ではない役者中村勘九郎が楽しみです!

おりす
金栗四三さんて凄い人だったなんて!
おねずみ
全く知らなかった私・・失礼しました(泣)

 

今回は中村勘九郎さんはいだてんでどういう役柄なのか、実在モデルはいるのか、また今まで中村勘九郎さんどんな俳優人生を送ってきたのかプロフィールや出演作品などを詳しくご紹介します♪

中村勘九郎が演じる金栗四三(かなくり しそう)ってどんな役?


熊本の山奥で育った超自然児にして“韋駄天(いだてん)”オリンピックの言葉も知らずにマラソンの予選会で世界記録を樹立。「ストックホルム大会」に参加するも、日射病で失神し“国辱”を味わいます。

しかし、翌日には発奮、走り出り。4年後の再起を誓い練習に励みますが、第1次大戦で「ベルリン大会」が中止となる悲運。“夢を後進に託す”べく学校の先生になり、箱根駅伝を創り、多くの弟子を育てます。

また、いち早く女性の可能性に注目、女子教育にも情熱を注ぎます。しかし、迎えた「東京オリンピック」が、第2次大戦で幻となり、戦争で弟子の命まで失われてしまいます。

度重なる悲運にもめげず、寡黙に笑顔で生涯を走り続けた、太陽のような人間は、かつて日本マラソン界の父と呼ばれていました。日本人初のオリンピック選手としてストックホルム夏季五輪に出場する金栗四三さん演じる中村勘九郎さんです。

マラソンに情熱をかけた金栗四三さんは一言では表せない、凄い人だったんですね!

 

本人のコメント

勘九郎さんは「ご覧の通り、豪華ですてきで、ちょっと奇抜な俳優陣、この暑さにも負けない熱い魂を持って、良いものを撮ろうとするスタッフの皆様と共に、このテーマパークに足を踏み入れたような新セットで毎日撮影ができていること、本当に幸せに思います」とかみ締めるように語りました。

 

 

おりす
勘九郎さんは四三って役柄をどう演じるのかな!
おねずみ
歌舞伎役者とは違う中村勘九郎が今から楽しみ♪

中村勘九郎さんが今回のドラマの中で、金栗四三をどんな風に演じ、表現していくのか、とても楽しみですね!

実在モデルはだれ?

中村勘九郎さん演じるのは、金栗四三という実在する方です。

明治24年(1891年)8月24日金栗四三誕生

金栗四三(中村勘九郎さん)は明治24年(1891年)8月24日に、熊本県玉名郡春當村中林で、父は、金栗信彦、母は金栗シエで、8人兄弟の7番目(4男)として生まれます。金栗家は、祖父の時に造り酒屋を営み、地元の名士となっていましたが、父、信彦が造り酒屋を廃業して、農業をしていました

子供の頃から勉強は成績は良く、吉地尋常小学校、玉名北高等小学校、玉名中学校へと順調に進学、成績も学年で1、2位の上位でした。

また小学校へは片道12㎞の道のりを早足、または走って登下校し、中学校は寮へ寄宿しましたが、週末には片道20㎞を走って実家へ戻っていました。

成績優秀であったため、上級校への進学を進められた金栗四三は海軍兵学校を受験しますが角膜炎のため不合格となり、滑り止めで受験した東京高等師範学校(現在の筑波大学)に合格し、ここへ進学することとなりました。

おりす
頭の良い人だったんだね
おねずみ
滑り止めで筑波大受けてるからね

嘉納治五郎との出会い

明治43年(1910年)4月、東京高等師範学校・地理歴史科に入学した金栗四三は、ここで自分の人生を決定付ける嘉納治五郎と出会います。

柔道の父であり、講道館を設立して柔道の普及に尽力し、また日本の教育界にも多くの功績を残した人物です。

金栗四三が入学したとき嘉納治五郎は東京高等師範学校の学校長をしており、「知育、徳育、体育の三育」を教育理念に掲げ、勉学だけでなくスポーツを推奨して学校でも年に2回、マラソン大会を開催していました。

入学直後の春の大会に出場した金栗四三は、はじめての競技会ということもあり、アクシデントが重なり何とか25位でゴールという結果に終わります。

雪辱を期した秋の大会では1、2位は上級生に譲ったものの3位でゴールし、嘉納治五郎校長から「1年生としては抜群の健闘」と激賞され、2年生進級とともに熱心に入部を勧誘してくれた徒歩部(陸上部)に迷うことなく入部しました。

おりす
これが運命の出会いになるんだね
おねずみ
流石に初めは25位だったけどその後すぐ3位って凄いね

陸上界での成長

当時の学校のクラブ活動は学業の延長だったため、厳しい練習を課せられることはなかったのですが、金栗四三は自分に厳しい練習ノルマを課して努力を重ね、校内のみならず学生界でも敵なしのマラソンランナーへと成長します。

このころ校長であった嘉納治五郎は東洋ではじめてのIOC委員(国際オリンピック委員会)に選出され、1912年の第5回ストックホルムオリンピック(スウェーデン)への日本の参加を求められていました。

嘉納治五郎はオリンピックへ参加すべく関係機関に働きかけますが、政府の腰は重く文部省はこれを断り、仕方なく東京都内の大学有志を招集して大日本体育協会(のちのJOC、日本オリンピック委員会)を設立、初代会長に就任し出場選手を決めるべくオリンピック予選会の開催へと漕ぎ着けます。

この予選会に出場した金栗四三は日本には存在しなかったランニングシューズの代わりに足袋を履き出場、途中で足袋が破れて素足になるアクシデントがありながら、当時のマラソン世界記録を27分も上回る記録で優勝して世界を驚かせました。

予選会に優勝した金栗四三と東京帝国大学の短距離ランナー・三島弥彦(みしまやひこ)をストックホルムへ派遣するとJOCでは決定するのですが、金栗も三島も当初は固辞したり、躊躇します。

その理由は当初は補助を約束していた文部省が「官立大学の学生が運動競技と言う遊びで海外へ行くなど許しがたい」として補助金の交付を拒否し、渡航費用が全て個人負担となったからです。

また、ストックホルムへ行ってオリンピックに参加するとなると5ヶ月もの長期に渡って学校を休まなければならず、進級や卒業、試験のことなど問題が山積していました。

おりす
自主的に厳しい練習を課するなんで、努力家だよね
おねずみ
その甲斐もあっての成績なんだね

オリンピック出場

代表を固辞する金栗四三に嘉納治五郎が「捨て石や礎になることは辛いことだが、誰かがやらなければいつまでも日本は欧米に追い付くことはできない。ここを逃せば次はまた4年も待たなければならない。日本のスポーツ界のために黎明の鐘になってくれ」と説得。

この「黎明(れいめい)の鐘」、物事の始まり・夜明けを告げる鐘という言葉に感銘を受けた金栗四三は出場を決意します。

オリンピックマラソン代表を受諾した金栗四三は父の亡きあと、全ての面で支えてくれている兄・金栗実次(かなくりさねつぐ)に渡航費用1800円の用立てを依頼する手紙を書きました。

実次は四三が代表になったことを非常に喜び、渡航費用は田畑を売っても用意すると約束してくれます。

ところが、この話を聞き付けた郷土の先輩で東京高等師範学校寄宿舎の舎監(寄宿舎住人の指導、管理をする人)であった福田源蔵(ふくだげんぞう)は金栗四三後援会を立ち上げ、渡航費用の寄付活動を開始、自身も必勝祈願として11円11銭を寄付すると、瞬く間に1500円もの金額が集まりました。

当時のストックホルムへの渡航費用は1800円程度(約500万円)だったため、兄・実次は残りの300円のみの負担ですみました。

予選途中で破れた足袋の対策を近所の足袋店「播磨屋足袋店」の職人・黒坂辛作(くろさかしんさく)に相談したところ、足袋の底を3重に重ねて厚くする「マラソン足袋」の開発に成功します。

この話が池井戸潤著「陸王」のモデルとなっています。

明治45年(大正元年・1912年)5月16日ストックホルムへ

明治45年(大正元年・1912年)5月16日に日本を出発、17日間掛けて翌月2日にストックホルムへ到着、船でウラジオストック、シベリア鉄道を使っての疲労のたまる長旅でした。

ストックホルムの日本公使館が用意した宿舎は三階建ての部屋が狭く、食事も良いとは言えないホテルでしたが、それ以外にも北欧独特の白夜や回り全てが外国人(当たり前のことですが)の環境に神経をすり減らすことになります。

またコーチとして同行していた大森兵蔵(おおもりひょうぞう)が患っていた肺結核の具合が良くなく、金栗四三は一人での練習を余儀なくされ、タイムを計ることさえ儘ならない状況となります。

しかし、金栗四三らが到着してから5日後、嘉納治五郎ら日本代表役員が到着し、多少なりとも事態は好転します。

オリンピックの開会式を4日後に控えた7月2日、オリンピック大会事務局から初参加である日本代表のプラカード表記についての問い合わせが来ます。

コースの大森は当然「JAPAN」とすべきだと提案しますが、金栗四三はイギリスが勝手につけた名前は嫌だと拒否し漢字で「日本」とすべきと主張。

困った嘉納治五郎がローマ字による「NIPPON」を提案し、恩師の妥協案には反対しがたく、金栗四三もこれを受け入れます。

 

おりす
嘉納治五郎さんとの出会いがなかったら四三の人生はどうなってたんだろう。
おねずみ
人との出会いで人生こんなにも変わるだなんて!

明治45年(1912年)7月6日オリンピック初出場

明治45年(1912年)7月6日、金栗四三は「NIPPON」表記のプラカードを持ち、三島弥彦が日章旗を掲げて入場、日本がはじめてオリンピックに名を刻んだ瞬間でした。

三島弥彦は100m、200m走の予選に出場しますが、自己新記録をマークしても最下位となり、世界との差を痛感させられます。

金栗四三はマラソンに出場予定でしたがスタート地点までの送迎車が来ず、スタート直前に到着するアクシデントに見舞われます。

参加選手68名ながら、アジア地区からの出場は金栗四三だけでした。

スタートして金栗四三はいきなりの試練にも直面します。

外国人選手との対戦経験がなかったため、彼らがスタートからいきなり全力でハイペースで飛ばすのに巻き込まれてオーバーペースとなり、自分のレースが出来ませんでした。

しかし健闘を続けた金栗四三は17位まで順位を上げ、折り返し地点を通過。

舗装された硬い路面、白夜による寝不足、気温35度を越える猛暑に満身創痍でフラフラとなった金栗四三は26.7㎞地点でコースを外れてしまい森の中で昏倒、そのまま意識を失います。

意識不明の金栗四三はスウェーデン人の農夫エルジエン・ペトレに発見、救護され、命に別状なく介抱されました。

ストックホルム大会のマラソンは34名が棄権、一人が死亡する過酷なサバイバルレースとなりました。

金栗四三は大会本部に棄権届けを提出し忘れたため、記録は「棄権」ではなく「行方不明」扱いとなり、この事がのちに大きな感動を呼ぶことになります。

帰国の途についた金栗四三は、思ったような結果が残せず、非常に落胆していました。

しかし、嘉納治五郎だけは「オリンピックに参加したことによって外国の技術の高さや国際大会を経験できたことで日本のスポーツ界が世界への第一歩を踏み出せたことが有意義だった」と参加した者を励まし、次への飛躍を誓うのでした。

おりす
意識不明になるって・・・
おねずみ
34人棄権して1名死亡って今だったら問題になるね

 

明治45年(1912年)9月18日帰国、そして結婚

明治45年(1912年)9月18日、神戸港へと帰国した金栗四三らでしたが7月30日に明治天皇が崩御した事で日本中が悲しみのなかでの帰国となったため、出迎えるものもほとんどなくオリンピック参加も話題になることはありませんでした。

東京高等師範学校へ戻った金栗四三は勉学と4年後のベルリン大会を目指して練習を開始、この頃から後輩への指導も始めました。

金栗四三が23歳になった時、熊本県玉名郡小田村の資産家・池部氏から兄・実次を通して金栗四三に養子の話が持ち込まれます。

特に断る理由のない金栗四三は東京に居住するのを条件に承諾また兄の実次が勝手に決めてしまった同石貫村の医師の娘・春野スヤとの見合いを学校卒業後にすることになります。

師範学校の卒業が迫るなかで愛知一中への赴任が決まりますが、金栗四三はベルリンを目指すために師範学校の研究科への進学を希望、これが認められて東京に残ることになります。

師範学校を卒業すると熊本へ帰省、スヤと結婚し、池部の家に養子に入りますがこの後も通称では金栗四三を名乗りました。

新妻・スヤを熊本に残して東京に戻った金栗四三はストックホルムの反省を糧にベルリンを目指します。

夏の大会の猛暑に慣れるための訓練や米のない海外でパンでの食事、硬い路面の舗装道路対策など、経験したことすべてを練習に取り入れます。

また師範学校の先輩たちが赴任する各地の学校へ出向いて指導を行い、マラソンの普及に勤めました。

これらの費用は養母・池部幾江が仕送りしてくれたお金が充てられていたそうです。

ベルリンオリンピック中止、箱根駅伝の始まり

ベルリンに向けて準備を進めるなか、大正3年(1914年)ヨーロッパではオーストリア皇太子暗殺に端を発した第一次世界大戦が勃発、世界を巻き込んだ戦争は大正5年になってもおさまらず、ベルリンオリンピックは中止が決定、金栗四三は26歳と言う年齢的にも能力的にも脂の乗った競技適齢期を戦争によって奪われてしまいます。

しかし金栗四三はこんなことには挫けることなく、次のアントワープへと気持ちを切り替えます。

東京高等師範学校研究科を卒業後、神奈川師範学校に赴任、兵役はオリンピックでの活躍こそが日本国のためと判断されて免除となったため、金栗四三はより一層マラソンや長距離走の普及、強化に力を注ぎます。

大正6年(1917年)読売新聞の記者の発想から考案された「東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」や、高地トレーニングになるとして富士登山マラソンの復活、朝日新聞との提携で実現した下関~東京1200㎞走破、大正8年(1919年)には日光~東京130㎞マラソンを開催し、マラソン選手の発掘、育成を強化していきます。

大正8年10月、金栗四三とマラソン選手の沢田英 一(さわだえいいち)と棒高跳び選手の野口源三郎(のぐちげんざぶろう)の3人が集まった時にサンフランシスコ~ニューヨーク間、アメリカ横断駅伝の構想が話題に上ります。この話を報知新聞社に持ち込むと協賛を取り付けることができ、国内でアメリカ横断駅伝の予選会を行うこととなります

これが箱根駅伝の前身となります。

アメリカ横断駅伝の予選会には東京高等師範(現筑波大)、早稲田、慶応、明治の4校が名乗りをあげ、第1回箱根駅伝は四大校駅伝競走の名で開催されることになります。

日光、水戸、箱根の各地と東京を結ぶコースが候補となるなかで険しい山越えがある箱根が選ばれ、時期も耐寒のため2月となりました。

大正9年2月14日午後1時にスタートした第1回大会は東京高等師範学校が優勝、ここから箱根駅伝の伝統が築かれていきます。

この年の4月、金栗四三は30歳を迎えていましたがオリンピック予選を通過して代表に選出され、アントワープ五輪に派遣される選手は金栗四三を含めて15名、長距離走への出場選手は6名を数えました。

わずか二人で参加したストックホルム五輪の経験を活かして派遣選手の体調管理、宿舎の確保など、格段の進歩を見せてテニスで2つの銀メダルを獲得します。

金栗四三はマラソンで最高5位まで順位を上げますが、途中で足を痛め最終結果は16位でした。

オリンピックから帰国すると、金栗四三は東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に就職し、女性のスポーツ進出に力を入れます。

海外では女子選手の活躍も当たり前のようになっていましたが、日本では大和撫子、内助の功と言われる時代。

そんな日本の女性にもスポーツに参画してもらい、子供たちも幼少期からスポーツに触れ合える社会構造を目指しました。

この努力は大正12年(1923年)の関東女子体育連盟設立へと繋がっていきます。

パリ五輪開催の年に34歳となる金栗四三はマラソンの第一線を退こうと考えていましたが、出場した予選会で若手有望選手が次々と脱落、なんと金栗四三が優勝してしまいオリンピック代表に選出されます。

しかし出場した第8回パリ五輪では実力を発揮できずに32.3㎞付近で意識を失って脱落、棄権することになりました。

結局、3度の出場で一度も結果を残すことができずに金栗四三のオリンピック競技人生は幕を閉じました。

おりす
箱根駅伝ってアメリカ横断駅伝の予選会だったんだね
おねずみ
最初は4校だけだったんだね。その後は女子のスポーツ進出にも貢献されてるんだね

競技人生終了後東京オリンピック招致するも・・・

昭和6年(1931年)、日本は東京へのオリンピック招致を表明、昭和11年の開催地決定投票でヘルシンキを破って招致が決定します。

東京開催の準備のためJOC初代会長、IOC委員の嘉納治五郎に東京へ呼び戻された金栗四三は選手の育成や会場構想などに奔走しますが、昭和12年の盧溝橋事件に端を発した日中戦争により、日本政府はオリンピック開催賛成派と反対派に別れて大いに揉めます。

嘉納治五郎はIOC総会で批判にさらされながらも東京開催の確認に成功しますが、この帰路に急性肺炎で急死。

結局、旗降り役の嘉納治五郎を失った賛成派は勢いを失い、政府は開催中止を決定し、ヘルシンキに開催権が移動。

東京オリンピックが幻となり、恩師・嘉納治五郎を失った悲しみは大きく、また戦争の影が社会からスポーツを奪い取ってしまい、金栗四三は失意のまま熊本に帰りました。

第二次世界対戦終結後、敗戦国の日本は14回のロンドン五輪は出場を拒否され、15回のヘルシンキからの復帰を目指します。

マラソン選手の育成のため、国際競走への出走を考えた金栗四三は「オリンピックマラソンで優勝する会」を結成して監督に就任、第55回ボストンマラソンに日本人選手をエントリーさせます。

この大会で広島出身の田中茂樹(たなかしげき)が「金栗足袋」を履いて優勝、ヘルシンキへの期待が高まりますが五輪本番では田中茂樹の25位が最先着と惨敗。

国民の期待を大きく裏切ったマラソンへの風当たりは強くなり、日本陸連はボストンマラソンへの参加に消極的になります。

金栗四三はこれに強く反対し、自らが監督となってボストンマラソンに参加、山田敬蔵(やまだけいぞう)が2時間18分51秒の驚異的な世界新記録で優勝、マラソンはヘルシンキでの汚名返上に成功しました。

この後もボストンマラソンで活躍を続けた日本マラソンですが、オリンピックでは成績を残すことができずにいました。

金栗四三はマラソン引退後も金栗足袋の進化、改良を続けており、ついに国産では初めてのランニングシューズてあるカナグリシューズの開発に成功、山田敬蔵のボストンマラソン優勝を支えたのも、このカナグリシューズでした。

日本のマラソンは昭和37年(1962年)に開催された東京オリンピックで円谷幸吉(つぶらやこうきち)が3位に入賞して銅メダルを獲得するまでオリンピックでの活躍はありませんでしたが、この後は1966年のメキシコ五輪で君原健二(きみはらけんじ)が銀メダル、1992年のバルセロナ五輪では森下広一(もりしたこういち)が銀メダルの成績を修めています。

昭和42年(1967年)54年8ヵ月6日5時間32分20秒3の記録でゴール

昭和42年(1967年)、77歳になった金栗四三のもとに一通の招待状が届きます。

第5回ストックホルムオリンピックから55周年を記念して国際親善の式典を行うために記録を見直していたスウェーデンオリンピック委員会によって金栗四三の記録が抜け落ちている事が判明、また棄権届けも出ていなかったため、記録を完成させるためマラソンを完走してもらうように招待状を出したのでした。

これを快く受諾した金栗四三はスウェーデンに行き、マラソンで倒れたときに介抱してくれたペトレ氏の家を訪ね、子息に会ってお礼と思い出話に花を咲かせた後、ストックホルム記念球場に用意されたゴールテープを私服のまま切って55年ぶりに悲願のゴールを達成。

「日本の金栗選手、54年8ヵ月6日5時間32分20秒3の記録でゴールしました。」

このアナウンスが球場に響くと、客席から大きな拍手が沸き上がったということです。

昭和30年スポーツ界ではじめての紫綬褒章を受賞、他にもこれまでの功績を讃えた多くの賞を受賞し、玉名市の名誉市民にも選ばれました。

昭和58年(1983年)11月13日永眠

晩年は故郷の小学校でマラソンを教えていましたが、昭和58年(1983年)11月13日、恩師の嘉納治五郎と同じ肺炎でこの世を去りました。

享年93歳、死後、従五位銀杯が皇室から下賜されました。

はじめてのオリンピックに出場し、多くの苦難を乗り越え、日本マラソンを世界に通用するレベルに達成させるために数多くの功績を残した金栗四三。

彼の不屈の闘志とオリンピックに賭ける情熱が日本スポーツの大きな発展に繋がったのは間違いのない事実です。

2020年の東京オリンピック開催を誰よりも喜び、誰よりも楽しみにしているのは天国にいる金栗四三なのかもしれません

おりす
四三のマラソンにかける情熱は計り知れないものだね。
おねずみ
とても考えさせられるな。マラソンに人生を捧げた凄い人だったんだね!

日本のマラソン界に多大なる影響を残した四三さん。この方がいなければ日本のマラソンはどんな形だったのでしょうか。そして四三さんのマラソンにかける情熱に只々頭が下がる思いです。

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【中村勘九郎のプロフィール♪】


プロフィール

名前:中村勘九郎(なかむらかんくろう)

本名:波野 雅行(なみの まさゆき)

誕生日:1981年10月31日

血液型:O型

出身地:東京都

身長:174cm

所属事務所:株式会社ファーンウッド

趣味:料理 音楽観賞 映画観賞 テレビゲーム カラオケ 観劇 格闘技観戦 ダーツ ゴルフ

中村勘九郎さんを調べていて趣味の格闘技観戦 には意外で驚きました。カラオケはどんな曲を歌うんでしょうか!

 

中村勘九郎が芸能界に入ったきっかけや現在の活動は?

1981年10月31日 – 五代目中村勘九郎(のちの十八代目中村勘三郎)の長男として生ます。

1986年1月 – 『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の小三郎で初お目見得。
1987年1月 – 歌舞伎座『門出二人桃太郎』の桃太郎で、二代目中村勘太郎を襲名して初舞台。

2009年10月28日 – 前田愛と結婚。
2011年2月22日 – 長男が誕生。

2012年2月 – 新橋演舞場二月大歌舞伎『土蜘』の僧智籌実ハ土蜘の精、『天衣紛上野初花』(河内山)の松江出雲守、『春興鏡獅子』の小姓弥生後ニ獅子の精で六代目中村勘九郎を襲名。

2013年4月2日 – 歌舞伎座『新こけら落とし公演』第一部中幕・舞踊「お祭り」にて長男をサプライズで登場させた。
2013年5月22日 – 次男が誕生。

視力が悪く、舞台以外では眼鏡をかけることもある。

妻・前田愛とは、ドラマ『光の帝国』での共演をきっかけに交際をはじめ結婚しました。

趣味は漫画を読むことで、単行本よりも週刊誌をリアルタイムで読むことに感動するという。父仕込みでTVゲームのファンです。

また、アイドルグループの欅坂46(特にゆいちゃんず)のファンであり、歌舞伎の中に欅坂46ネタを入れることもあります。(実際に博多座で歌舞伎の公演をした際、馬に乗った後メンバーの菅井友香さんの持ちギャグ「がんばりき」を台詞の中に入れたり、馬を走らせている時にメンバーの志田愛佳の名言「あたらっぷ」を叫んだり、寝ている時に寝言でメンバーの長沢菜々香の愛称「なーこ」を連呼したりしています)。

 

おりす
歌舞伎役者の家に生まれたから役者人生は必然的だたのかな!
おねずみ
きっとたくさんの葛藤もあったんだと思うよ。

 

中村勘九郎の代表作を紹介

ここで中村勘九郎さんの代表作を紹介します。

豊臣秀吉 天下を獲る!: 日吉役

戦国時代、全国は小さな単位に分かれ、多くの武将が上洛、全国統一を目指していた。その戦国の世にあって、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人は、これまでの武将とは違った「力」「資質」を持っていました。
その中で秀吉は、信長の草履取りからはじめ、遂には最高権力の座につくという数奇な運命の持ち主。信長に仕え、様々な機知を発揮、次第に己の存在を高めていく秀吉。

人々と織りなす戦・事件・交遊…。そして、信長亡き後の見事な天下取りの行動。天下を統一する政権の樹立。権力の座に座ってからの術策。そして、老いていく英雄…。
人の世を「夢」「幻」とうたった豊臣秀吉の生涯を、歌舞伎界の花形役者・中村勘九郎さん(5代目。後の18代目中村勘三郎)が体当たりで熱演します。

中村勘九郎さんは、(当時、二代目中村勘太郎襲名のちの6代目中村勘九郎)日吉役(後の豊臣秀吉)を演じます。

おりす
親子共演を果たしてるね!
おねずみ
みんな若いな!

 

新選組!: 藤堂平助 

元治元年、京都で近藤勇、土方歳三率いる新選組は不逞浪士の取締に出動します。長州藩の桂小五郎は取り逃がしてしまったものの沖田総司などの活躍により大きな成果を挙げます。

この事件を聞いた坂本龍馬は10年前の江戸での出来事を思い出していく物語です。

中村勘九郎さんは、誰に対しても礼儀正しく、とても穏やかで良識的な性格の反面、稽古は厳しく戦闘になると人が変わったように激情的な剣を振るう藤堂平助役を演じます。

おりす
いかしこのドラマは、キャスト人の豪華さに驚き!
おねずみ
脚本は 三谷幸喜さん♪三谷さんの作品大好き!

 

赤めだか: 5代目中村勘九郎 役

少年時代のある日、立川談志さんの落語を見たことをきっかけに落語家になることを決意した談春さん。

談志さんから「親の許しがあるならば弟子にしてやる」と言われた談春でしたが、案の定両親は猛反対。しかしあの手この手で親を説得して、弟子入りを果たします。

だが弟子としての日々は、決して生易しいものではありませんでした。談志さんの家に通い「身の回りの世話」をする日々。談志は毎朝弟子たちを集め、つつじの花を間引く、牛乳を買う、猫を追い払う、窓の掃除をする、金魚に餌をやる、などの覚えきれない程の仕事を命じ、最後に必ず厳しいチェックをします。

17歳という若さの立川談春さんが、「天才」「風雲児」と言われた故・立川談志のもとに弟子入りし、新聞配達をしながら生計を立て、弟子仲間たちと苦楽を共にしながら成長していく様子と、誰よりも落語を愛し、落語に挑み続けた男・立川談志の破天荒な生き様を中心に超豪華キャストで鮮やかに描き出す作品です。

中村勘九郎さんは、5代目中村勘九郎さんを演じます。

おりす
日本文化を代表する落語!小さい頃はよく分からなかったな(笑)
おねずみ
大人になって落語の面白さが分かってきたもん♪噺家さんそして落語はなくしてはいけないよ!

日本の伝統文化、落語、歌舞伎、まだまだありますが、この文化は消してなくしてはいけないと改めて思いました。

中村勘九郎の演技の評価まとめ!

次は演技の評価を紹介します。ここでは下手な意見と上手な意見をまとめてみました。

下手な意見

おりす
なかなか厳しいコメントだね!
おねずみ
中村勘九郎さんでも下手な意見があるんだね(汗)

上手な意見

おりす
流石中村勘九郎さん!私も勘九郎さんの演技は素敵だと思う!」
おねずみ
みんな細かい所まで見てるんだね♪

歌舞伎役者の所に生まれて芸事に一層の努力をしてきた中村勘九郎さん歌舞伎の細かい演技の表現力は、たくさんの作品に表れていますね

 

いだてんでの中村勘九郎に期待!

いかがでしたでしょうか?日本のマラソン界の基盤を作り上げてきた金栗四三演じる中村勘九郎さん。この物語を調べて、一言でいうと日本のマラソン界の凄い人!マラソンの知らない歴史も知ることができました。大阪にある有名なグリコの看板も諸説は色々あるみたいですが、金栗四三のモデルの1人だとか。ますますこのドラマが楽しみです!

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