いだてん金栗四三の走り方や呼吸法が変!これには驚くべき理由が!

2019年大河ドラマ「いだてん」
オリンピック招致の話ということで始まる前からかなり話題になっていますね。

朝ドラを見た後にNHKを見てるだけでCMや特集を何本を見られたからいろいろ気になっちゃったよ!

おりす
なんか走り方や呼吸法が変なんだよね(笑)
おねずみ
実はそれには意味があったんだよ♪

今回はそんないだてんの特集や予告を見ていて私が気になった金栗四三さんの走り方と呼吸法について詳しく紹介します。

金栗四三の走り方や呼吸法が変!これには驚くべき理由が!

金栗四三は東京高等師範学校に在学中、学校で年に2回開催されていたマラソン大会をに参加していました。

入学直後の春の大会に出場した金栗四三は、はじめての競技会ということもあり、アクシデントが重なり何とか25位でゴールという結果に終わります。

雪辱を期した秋の大会では1、2位は上級生に譲ったものの3位でゴールし、嘉納治五郎校長から「1年生としては抜群の健闘」と激賞され、2年生進級とともに熱心に入部を勧誘してくれた徒歩部(陸上部)に迷うことなく入部しました。

おりす
当時は陸上部じゃなくて徒歩部だったんだね!
おねずみ
ネーミングが面白いね(笑)

金栗四三は自分に厳しい練習ノルマを課して努力を重ね、校内のみならず学生界でも敵なしのマラソンランナーへと成長します。

そんな時に東京師範学校の学校長であり、東洋ではじめてのIOC委員(国際オリンピック委員会)に選出された嘉納治五郎にマラソン選手としてストックホルムオリンピックに出場しないかと打診されます。

実は当時、フルマラソンの42,195kmを走ることは日本人にとって「完走できないかもしれない」「危険なこと」「命を落とすかもしれない」と言われるくらい大変なことでした。

そんな時に考え出されたのがあの「金栗四三走法」

金栗走法

①腕の振り方

・胸を張って少し前傾に
・腕の振りは小さく、体の前に出さない

②呼吸法

・2回吸って2回吐く「すっすっはっはっ」
・走るリズムと呼吸のリズムを合わせる

③独自のトレーニング方法の開発

・高地トレーニング
・真夏の耐熱練習
・インターバルトレーニング

金栗四三はただがむしゃらに練習するだけでなく研究熱心でもあり、当時はこうすることによって体に負担が少なく、なおかつ効率的に走ることが出来ると考えていました。

おりす
命を落とすかもしれないって言われてたなんて家族は心配でたまらなかっただろうね
おねずみ
実際走ってみてどうだったんだろう?

ストックホルムオリンピック出場

明治45年(1912年)7月6日、金栗四三は「NIPPON」表記のプラカードを持ち、三島弥彦が日章旗を掲げて入場、日本がはじめてオリンピックに名を刻んだ瞬間でした。

三島弥彦は100m、200m走の予選に出場しますが、自己新記録をマークしても最下位となり、世界との差を痛感させられます。

金栗四三はマラソンに出場予定でしたがスタート地点までの送迎車が来ず、スタート直前に到着するアクシデントに見舞われます。

参加選手68名ながら、アジア地区からの出場は金栗四三だけでした。

スタートして金栗四三はいきなりの試練にも直面します。

外国人選手との対戦経験がなかったため、彼らがスタートからいきなり全力でハイペースで飛ばすのに巻き込まれてオーバーペースとなり、自分のレースが出来ませんでした。

しかし健闘を続けた金栗四三は17位まで順位を上げ、折り返し地点を通過。

舗装された硬い路面、白夜による寝不足、気温35度を越える猛暑に満身創痍でフラフラとなった金栗四三は26.7㎞地点でコースを外れてしまい森の中で昏倒、そのまま意識を失います。

意識不明の金栗四三はスウェーデン人の農夫エルジエン・ペトレに発見、救護され、命に別状なく介抱されました。

ストックホルム大会のマラソンは34名が棄権、一人が死亡する過酷なサバイバルレースとなりました。

金栗四三は大会本部に棄権届けを提出し忘れたため、記録は「棄権」ではなく「行方不明」扱いとなり、この事がのちに大きな感動を呼ぶことになります。

帰国の途についた金栗四三は、思ったような結果が残せず、非常に落胆していました。

しかし、嘉納治五郎だけは「オリンピックに参加したことによって外国の技術の高さや国際大会を経験できたことで日本のスポーツ界が世界への第一歩を踏み出せたことが有意義だった」と参加した者を励まし、次への飛躍を誓うのでした。

おりす
ホントに亡くなる人がいたんだね。。。
おねずみ
金栗四三さんは命を落とさなくてよかったよ(泣)

ベルリンオリンピック中止、箱根駅伝の始まり

ベルリンに向けて準備を進めるなか、大正3年(1914年)ヨーロッパではオーストリア皇太子暗殺に端を発した第一次世界大戦が勃発、世界を巻き込んだ戦争は大正5年になってもおさまらず、ベルリンオリンピックは中止が決定、金栗四三は26歳と言う年齢的にも能力的にも脂の乗った競技適齢期を戦争によって奪われてしまいます。

しかし金栗四三はこんなことには挫けることなく、次のアントワープへと気持ちを切り替えます。

東京高等師範学校研究科を卒業後、神奈川師範学校に赴任、兵役はオリンピックでの活躍こそが日本国のためと判断されて免除となったため、金栗四三はより一層マラソンや長距離走の普及、強化に力を注ぎます。

大正6年(1917年)読売新聞の記者の発想から考案された「東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」や、高地トレーニングになるとして富士登山マラソンの復活、朝日新聞との提携で実現した下関~東京1200㎞走破、大正8年(1919年)には日光~東京130㎞マラソンを開催し、マラソン選手の発掘、育成を強化していきます。

大正8年10月、金栗四三とマラソン選手の沢田英 一(さわだえいいち)と棒高跳び選手の野口源三郎(のぐちげんざぶろう)の3人が集まった時にサンフランシスコ~ニューヨーク間、アメリカ横断駅伝の構想が話題に上ります。この話を報知新聞社に持ち込むと協賛を取り付けることができ、国内でアメリカ横断駅伝の予選会を行うこととなります

これが箱根駅伝の前身となります。

アメリカ横断駅伝の予選会には東京高等師範(現筑波大)、早稲田、慶応、明治の4校が名乗りをあげ、第1回箱根駅伝は四大校駅伝競走の名で開催されることになります。

日光、水戸、箱根の各地と東京を結ぶコースが候補となるなかで険しい山越えがある箱根が選ばれ、時期も耐寒のため2月となりました。

大正9年2月14日午後1時にスタートした第1回大会は東京高等師範学校が優勝、ここから箱根駅伝の伝統が築かれていきます。

この年の4月、金栗四三は30歳を迎えていましたがオリンピック予選を通過して代表に選出され、アントワープ五輪に派遣される選手は金栗四三を含めて15名、長距離走への出場選手は6名を数えました。

わずか二人で参加したストックホルム五輪の経験を活かして派遣選手の体調管理、宿舎の確保など、格段の進歩を見せてテニスで2つの銀メダルを獲得します。

金栗四三はマラソンで最高5位まで順位を上げますが、途中で足を痛め最終結果は16位でした。

オリンピックから帰国すると、金栗四三は東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に就職し、女性のスポーツ進出に力を入れます。

海外では女子選手の活躍も当たり前のようになっていましたが、日本では大和撫子、内助の功と言われる時代。

そんな日本の女性にもスポーツに参画してもらい、子供たちも幼少期からスポーツに触れ合える社会構造を目指しました。

この努力は大正12年(1923年)の関東女子体育連盟設立へと繋がっていきます。

パリ五輪開催の年に34歳となる金栗四三はマラソンの第一線を退こうと考えていましたが、出場した予選会で若手有望選手が次々と脱落、なんと金栗四三が優勝してしまいオリンピック代表に選出されます。

しかし出場した第8回パリ五輪では実力を発揮できずに32.3㎞付近で意識を失って脱落、棄権することになりました。

結局、3度の出場で一度も結果を残すことができずに金栗四三のオリンピック競技人生は幕を閉じました。

おりす
お正月名物箱根駅伝を作ったのも金栗四三さんだったなんて!
おねずみ
知れば知るほどすごい人だね!

昭和42年(1967年)54年8ヵ月6日5時間32分20秒3の記録でゴール

昭和42年(1967年)、77歳になった金栗四三のもとに一通の招待状が届きます。

第5回ストックホルムオリンピックから55周年を記念して国際親善の式典を行うために記録を見直していたスウェーデンオリンピック委員会によって金栗四三の記録が抜け落ちている事が判明、また棄権届けも出ていなかったため、記録を完成させるためマラソンを完走してもらうように招待状を出したのでした。

これを快く受諾した金栗四三はスウェーデンに行き、マラソンで倒れたときに介抱してくれたペトレ氏の家を訪ね、子息に会ってお礼と思い出話に花を咲かせた後、ストックホルム記念球場に用意されたゴールテープを私服のまま切って55年ぶりに悲願のゴールを達成。

「日本の金栗選手、54年8ヵ月6日5時間32分20秒3の記録でゴールしました。」

このアナウンスが球場に響くと、客席から大きな拍手が沸き上がったということです。

昭和30年スポーツ界ではじめての紫綬褒章を受賞、他にもこれまでの功績を讃えた多くの賞を受賞し、玉名市の名誉市民にも選ばれました。

メモ

このことはストックホルムでとっても有名な話でストックホルムの人たちは当時出場した選手のことは全く覚えてないけど金栗四三さんのことは覚えてるとインタビューで答えていました。

また金栗四三が初めて出場したストックホルムオリンピックで助けてくれた一家は今でも金栗家と交流があり、中村勘九郎さんも実際に訪れていました。

実は当時金栗四三さんを助けてくれた家族の子孫がストックホルムの撮影の時に出演しています♪それもお楽しみに!

おりす
わざわざ呼んでくれたなんて素敵!
おねずみ
それも未だに子孫同士で交流があるとか凄いよね!

昭和58年(1983年)11月13日永眠

晩年は故郷の小学校でマラソンを教えていましたが、昭和58年(1983年)11月13日、恩師の嘉納治五郎と同じ肺炎でこの世を去りました。

享年93歳、死後、従五位銀杯が皇室から下賜されました。

はじめてのオリンピックに出場し、多くの苦難を乗り越え、日本マラソンを世界に通用するレベルに達成させるために数多くの功績を残した金栗四三。

彼の不屈の闘志とオリンピックに賭ける情熱が日本スポーツの大きな発展に繋がったのは間違いのない事実です。

2020年の東京オリンピック開催を誰よりも喜び、誰よりも楽しみにしているのは天国にいる金栗四三なのかもしれません

おりす
四三のマラソンにかける情熱は計り知れないものだね。
おねずみ
とても考えさせられるな。マラソンに人生を捧げた凄い人だったんだね!

最後に・・・

今回私はいだてんを知るまで金栗四三さんという人物を知りませんでした。それが恥ずかしいと思うほど素晴らしい方ですね。

金栗四三さんがいなければ今のマラソンシューズや箱根駅伝がないと思うと変な感じです。

明日から始まるいだてん。楽しみにしておきましょう♪

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